7月30日は「プロレス記念日」。全ては力道山から始まった

 
7月30日が

「プロレス記念日」であることは、

あまり知られていないでしょう。

 

1953年のこの日に

「日本プロレスリング協会」

が設立された事から、この

プロレスの日が制定されたそうです。

 

協会設立の際、

その中心にいたのは「力道山」。


出展 http://ameblo.jp/narico-702125/entry-10969532426.html

 

 

言わずと知れた、

日本のプロレスの父です。

 

今でも「テレビ史」や、

「昭和史」などのテレビ番組では、

力道山の活躍に熱狂する人々が、

街頭テレビに群がるシーンが、

定番映像として流されます。

 

その当時、自宅で

力道山の試合を見ていて、

興奮してショック死した

老人もいたといいますから、

当時のプロレス人気は

「広く深いものだった」

と言っていいでしょう。

 

力道山が「プロレスの父」

と言われるのは、

もちろん日本で初めて

プロレス興行を行った

国民的大スターだったからですが、

同時に、最高の後継者を育てた

偉大な指導者だったからでもあるのです。

 

力道山が不慮の死を遂げたのは1963年。

 

現役ばりばり、まだ39歳の若さでした。

 

【ソース】

wikipedia 力道山

 

そのとき、力道山の最も近くにいた

若手レスラーが「アントニオ猪木」。


出展 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1 

 

 

そして、のちに猪木のライバルとなる

「ジャイアント馬場」は

アメリカで武者修業中でした。


出展 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1

 

 

力道山は、後に人気を2分する

ジャイアント馬場とアントニオ猪木を

ほぼ同時期に入門させました。

 

力道山がすばらしい指導者だったのは、

2人の育て方を見れば一発で分かります。

 

もとジャイアンツの投手だった

馬場にはアメリカでエリート教育、

そして猪木は手元において

自らスパルタ教育をしたのです。

 

これが逆だったら、おそらく

2人ともあれだけのレスラーには

なれなかったのではないだろうか?

 

と言う訳で、改めて

力道山の偉大さを思う、

「プロレス記念日」でした。

 

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